お世話になっております。
必修化される「プログラミング教育」を先取りして受けていたのがちょっと自慢、日本事務局の新村です。
文部科学省のウェブサイトにも「プログラミング教育」の特設ページが展開されています。
筆者とパソコンの出会いは、中学生時代に初めてMac(まだ七色のリンゴマークがアイコンだった頃)を買ってもらったのが最初です。どうです、この「ピザボックス」などと称されるこの形!
さらに通っていた中学校では「数学」の一環としてパソコンの操作(当時の日本で圧倒的なシェアを誇っていたNEC社のPC-9801シリーズ)を学びました。パソコンの操作だけではなく、「N88BASIC」という初心者向けのプログラミング言語を使って、ちょっとしたプログラミングまでやっていました。
※今度義務化される「プログラミング教育」を先取りして受けていたことになります。やったー!
そして、さらに高度な処理ができる「Quick Basic」や「C言語」など、数種類のプログラミング言語を触りました。そんなわけで、中学生の間はわりとプログラミングにのめり込んでいたようです。たとえば、MacとPC-9801のフォーマット違いを吸収するためのデータ変換プログラムを作ろうと模索したり、Macでは動作保証外だったモデム(通信機器)を強引にMacで動作させられるようにスクリプトを作ったり。
その頃やっていたことは詳細には覚えていませんが、自分で調べて、作ってみて、動かしてみる、というトライ&エラーのスピリットは身体で覚えることができたようです。なんだか、ITエンジニアみたいなことをしていたんですねぇ。
今日のプログラミング教育には、ガジェットが取り入れられ、子どもでも楽しく遊びながら学べるようなものが出てきています。
しかし、私がパソコンに触れていた頃は、そもそもプログラミング教育などというものは存在せず、またインターネットも普及していなかったので、雑誌から情報を得たり、パソコンショップの店員さんに話を聞くなどしていたものです。
・・・誰ですか!?「意外におっさんだな」とか言ってるのは!!これでもミレニアル世代なんですよ!!
便利さが深まる現代
AI(人工知能)の普及が、日常生活を飛躍的に便利に変えようとしています。
「OK, ○○○、今日の天気は?」
「Hey, △△△、明日の予定は?」
話しかけるだけで、適切な回答を返してくれる最先端のガジェット。
ITが普及する前は、テレビや新聞の天気予報を見たり、手帳をめくったり―。情報を引き出すには、自分で何らかの行動をしなければなりませんでした。
その手間を思い切り省力化させることに成功した現代人は、話しかけさえすれば自分が欲しいと思う最適な情報がカンタンに引き出せるようなモノを作り出しました。情報の収集・分析の大部分を、ITがこなせるようになったからですね。
進化を止めないIT
ITは、コンピューターの進化とともに、目覚ましい発展を遂げてきました。
現代のコンピューターの基礎となる機械(電子計算機)は、第二次世界大戦中に弾道計算のために制作されたのが起源とされています。
大戦後、目覚ましい進歩を遂げたコンピューターは、単なる計算機としての機能を遥かに超え、人間の生活において欠かせない存在となりました。
紙に手書きで作成・処理されていた申請事務は、ITが導入されることで申請書類が電子帳票となり、ペーパーレスで実現できるようになりました。
人手で運んでいた手紙は、インターネットの登場により電子メールに代わり、仕事においてもプライベートにおいても無くてはならない存在になりました。さらに、チャットサービスや無料通話アプリのメッセージ送受信機能のような、より気軽にメッセージをやり取りできる仕組みへと進化してきました。
電気・ガス・水道のような社会インフラ、航空宇宙・鉄道・クルマといった交通、小売や物流・・・。人々の暮らしに密接に関わる如何なるサービスにも、ITの力が必要不可欠となっています。
長く理論にすぎなかったAIも、実際にモノ(サービス)として登場し、驚異的な進化を遂げたのです。
こうしてITは、人に使われるモノから、人をサポートするモノへと進化してきたわけです。
便利=過保護の温床?
ITの力を最大限に活用して世の中が便利になっていくほど、「自ら考え、自ら動き、失敗(もしくは成功)する」という体験をする機会が減ってしまってしまっていることに気づきます。
さらに、日本では、日本人の国民性も手伝ってか、失敗を許さない風潮が蔓延しています。一度失敗すると二度と這い上がってこれない、という不安もつきまといます。だからなのか、失敗を恐れるあまりに挑戦すらしようとしない空気感すら漂っています。失敗するかもしれないから挑戦するだけ無駄、となっているのです。
その結果、「そこまでやるの?(=過保護じゃないの?)」と思えてしまうようなサービスが登場してきました。
新聞に取り上げられた、過保護なサービス
ある新聞記事で「過保護でいいじゃない」と題し、幾つかのサービスが紹介されていました。
- ・日常的なコミュニケーション手段として広く普及したチャットや無料通話アプリ等のメッセージのやり取り中に発生してしまった既読スルーに対してどのようにリアクションすればいいのか答えてくれる、なんでもお悩み相談サービス。
- ・入社先選びに助言してくれたり、企業での面接に同席してくれたりする、就職活動サポートサービス。
- ・婚活ツアーに同行して席順を決めてくれたり、誰が自分に興味を持っていそうか助言をくれたり、どうやって異性に声をかければ良いかアドバイスをくれたりする、婚活のサポートサービス。
日常生活はもちろんのこと、就職や結婚のようなライフイベントに至るまで、至れりつくせりといった様相です。
うーん・・・。記事を読んだ筆者の目には、こうしたサービスはどれもこれも、記事のタイトルどおり「過保護」に映ってしまいました。おそらく読者の方の中にも「過保護だな・・・」と感じた方は少なからずいらっしゃるでしょう。
過保護なサービスが産み出されたのは、どうして?
いつでも自分が欲しい情報だけに浸り、自ら考えなくても暮らしていける、極端に言えば、現代はそんな時代になりました。
高度に発展したITを基盤とするオンラインコミュニケーションが手段として広く普及し、顔を合わせなくてもやり取りができます。そこにAI技術を基盤にしたチャットボットのような仕組みが発達してきました。
過保護と評されるサービスは、こうした技術発展と時代背景から産み出されたのは必然と言えるのかもしれません。
機械が人を支配する!?
さらに、「恐ろしい」レポートも出ています。
2013年、オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授は、論文「THE FUTURE OF EMPLOYMENT: HOW SUSCEPTIBLE ARE JOBS TO COMPUTERISATION? – 雇用の未来: 仕事は自動化の影響をどれくらい受けるのか」の中で、「今後10〜20年の間に、47%の仕事が機械に取って代わられる(自動化される)」と述べています。
論文の中で「無くなる」とされている職種のごく一部を連載してみます。
・スポーツの審判
・不動産ブローカー
・保険の審査担当者
・給与・福利厚生担当者
・カジノのディーラー
・ネイリスト
・パラリーガル、弁護士助手
・時計修理工
・彫刻師
・義歯制作技術者
この論文では、米国労働省が公開している職種リストに掲載された702個の仕事を母数としていました。そのうち47%が機械に取って代わられる、とされたので、実に「330の仕事が無くなる」、とされたわけです。
上記に挙げた仕事は、どれも、専門スキルが必要とされるような仕事ばかりだと思います。しかも、人と人が密に関わることで職業として成り立ってきたようなものばかり。ですが、そうした専門スキルですら、ITと機械の進歩により、人に取って代わられようとしているのです。
人は、自らが作り出したAIや機械といったモノの驚異的な進化に、自身の進歩が追いついていません。便利さに浸っているうちに、いつのまにか自らが作り出したモノに立場を追われようとしているのです。
過保護なサービスに心地よく浸っていたら、いつの間にか、SF映画で繰り返しテーマに取り上げられる「機械に人間が支配される時代」になってしまいそう―。そんな危機感が、この論文を大きな話題へと押し上げた背景として考えられますね。
過保護社会をどう生き抜いていく?プログラミング教育必修化の本質とは。
過保護と評されるサービス、その裏側はどうなっているのでしょう。オンラインの向こう側に、人がいるのか、はたまたAIがいるのか。パッと見ただけではよくわからないですよね。
実は、プログラミングをする際には、その過程でモノの裏にある仕組み・仕掛けを論理的な思考により分析していく活動を必要とします。ですから、「プログラミングを学ぶということは、モノの仕組み・仕掛けを紐解いて見る眼を養うことだ」と言えるでしょう。
2020年。プログラミング教育が小学校に必修科目として導入されます。
プログラミング必修化により、モノに使われるだけの人材ではなく、モノを使う側(考えて生み出す側)の人材が増えていってくれることに、筆者は大きな期待を寄せています。
フランスの哲学者、ブレーズ・パスカルは「人間は考える葦である」という名文句を遺しました。
・・・そうです。私たち人間には元来「考える」という素晴らしい性質が備わっているのです。
便利さに身を委ね、考えることをやめてしまってはいけません。自ら考え、自ら行動し、時に失敗して学ぶ。プログラミングを学ぶことで、人間が元来持っている性分を今一度思い起こし、その能力を存分に発揮すべきときが来ているのではないでしょうか。